ボストンバック
十七歳で働きだした時から、自分は大人だと思ってきました。大人になってもう三年も経ったのです。だから子ども時分がどうだったかなんて、考える必要も思い返す必要もないと思っていたのですが、話したほうが良さそうです。 私がこの病院に来た理由と繋がっているような気がするからです。聞いてください、先生。
小学校の六年生まで、海手の町に住んでいました。正確には六年生の二学期が終わるまでです。もっと正確に言えば、その後また住むようになったのですが、それはまたあとで話します。家のすぐそばにある海は海水浴を楽しむ海ではなくて、底引き網漁とか海苔養殖とか、生活の海でした。漁師町ですが、もっぱら漁だけで暮らしている家は減ってきて、船を持っていてもおじいさんだけが小遣い稼ぎ程度で海に出て、息子は会社員になっている家が多い町でした。
それでも漁師町の雰囲気は残っていました。家と家の間を通る狭い世古があって、男も女も気は悪くないけど物言いが荒っぽいのです。自分とこだけが良い思いをするのも、隠し事も嫌われるのは、板子一枚下は地獄と言われた時代の名残だと爺ちゃんが言っていました。あけすけで、他人の家の事情に平気で立ち入るのは、みんなの絆のようなものです。
爺ちゃんは古い小型漁船で前浜の漁に出ていましたが、パパは解体工事会社に勤めていました。ママは近所のスーパーの店員で、家を取り仕切っているのは婆ちゃんでした。取り仕切ると言っても、婆ちゃんが台所に立つのはママが仕事に出ている昼の食事の用意だけです。あとは昔からの行事の料理とか爺ちゃんが港の市場で売れ残した魚の調理だけでした。
掃除も洗濯も、ほとんどママの仕事でしたから、婆ちゃんは主婦じゃなくて家で一番偉そうにしている人だったのです。若いときは別嬪だったと自分で言っているけど、笑顔を見せないきつい顔立ちでした。話す言葉が短くて一方的なので、よけいにきつい印象でした。
実際、家族の誰にも冷たくて厳しい態度でした。ほんの少し違うのは、私の六つ年下の弟に対してだけでしたが、それとて普通のおばあちゃんのような優しさで接していたわけではありません。
爺ちゃんは温和しいのかどうか子どもの私には分かりませんでしたが、婆ちゃんに命令されても「ああ」と返事するだけで、船を出さない日は昼間のほとんどを漁師仲間の家や漁協ですごしていました。
爺ちゃんにも婆ちゃんにも、遊んでもらった記憶やダッコされた記憶がありません。爺ちゃんが稼いだお金とママの給料は、婆ちゃんに渡っていたようです。婆ちゃんはそのお金で家計のやりくりをしていました。ですから家の采配は婆ちゃんが握っていたのです。
ママは婆ちゃんよりもずっと別嬪さんでした。友達のどのお母さんよりもきれいな顔立ちでした。テレビのアイドル並みだと私は思っていました。友達も担任の先生も「かわいいなあ」「美人だねえ」と言ってくれました。
それなのにママは暗くて怒ったような表情ばかりでした。いつもくたびれた服を着て化粧もしていないのです。婆ちゃんからもらうお金を学校の給食費や弟の幼稚園の費用に使うと、自分に使えるほどの額が残らなかったのでしょう。
パパの給料がどうなっているのか、ママには聞かなかったし婆ちゃんには聞けませんでした。パパの帰宅は毎晩遅くなってからでした。呑むか遊ぶかして帰って来るのは、子どもの私にだって察しがつきました。ママは黙って出迎えたけど不機嫌でした。
爺ちゃんは何にも言わないけど、婆ちゃんは怒っていました。パパの給料は多分パパ自身のために消えていたのです。
冷たい婆ちゃんと気弱なだけの爺ちゃん、自分だけ遊びに行く勝手なパパ。私と弟は毎晩、ママと川の字に並べた自分の布団を抜け出してママの布団に入って寝ようとしました。窮屈だけど、くっつきたかったのです。ママは疲れていて、弟は抱きかかえても私には背を向けて寝てしまいました。
ママが私と弟を連れて家を出たのは、六年生の十二月でした。よく覚えています。翌日が二学期の終業式という、冬にしては温い日でした。
その朝、ママは「学校が終わったらすぐに帰っておいで」と言いました。理由は帰ってきたら分かるから、と。その日私は走って帰りました。ひとりで下校することになっても平気な子でしたが、あの日は不安で、必死になって走りました。頭から汗が流れて、前髪がぺっとりとおでこに張り付きました。
冬休み前の二限下校の日でしたから、帰りついたのはまだ十一時になっていなかったはずです。婆ちゃんと爺ちゃんは遠くの親戚の法事に出かけていて、帰宅が遅くなると聞いていました。
ママは片手で大きなトランクを引いて、玄関から出てくるところでした。もう片方の手は、朝ママが幼稚園に送ったはずの弟の手を握っていました。
弟は園服を着ていたから、迎えに行って早退させたのだと思いました。弟とトランクだけで、ママは家を出て行こうとしていたのです。走って帰らなかったら、私は放っていかれるところでした。
「待ってママ、私を置いてかないで」
と、必死にお願いしました。近所に聞こえる大きな声だったので、ママは「静かにしなさい、あんたの荷物は部屋にあるから持っておいで、急いで」と急かしました。
ママが持ち出したのは、取りあえずの着替えと手持ちのお金でした。それと弟の身の回り品だけです。私の衣類は修学旅行で使った紺色のボストンバッグに放り込まれて、部屋の隅にありました。着古したTシャツのヒラヒラが、開いたまんまの口から飛び出していました。
私はその上に学校で使うものを乱暴に詰め込み、玄関へ駆けもどりました。家を出てゆく理由を、聞く気はありませんでした。何となく理解できたからです。ただ、学校と近所ではどんな噂で持ちきりになるだろうと、ぼんやり考えはしました。
逃げ出した先は、ママの実家でした。電車とバスを乗り継いで二時間の、山裾に田畑が広がる、潮の匂いがしない田舎です。おじいちゃんはもう亡くなっていて、おばあちゃんと伯父さん夫婦が母屋に住んでいました。優しいおばあちゃんでしたが、子どもを連れて逃げ帰ってきた娘に戸惑っている様子でした。それは伯父さん夫婦も同じで、どことなくよそよそしい感じでした。
私たちに用意してくれたのは、二部屋だけの離れでした。伯父さん夫婦が新婚当時に住んでいたそうで、お風呂はないけれどトイレと洗面台はありました。築年数は経っていますが、小綺麗にされていました。
伯父さん夫婦の子どもは二人いて、二人とも東京で暮らしていました。上のお姉ちゃんは会社員で、下のお兄ちゃんは大学生です。どっちかが帰ってきたらその離れに住めるようにと、手入れしてきたそうです。ですからずっと住み続けるわけにはいきませんが、当分は住む場所に困りませんでした。三学期から私は、ママが卒業した小学校に通いました。
弟は幼稚園に行かず、小学校入学までの三か月をおばあちゃんが面倒みてくれました。ママはすぐに新しい仕事を見つけて働き始めました。少し離れた町の喫茶店です。
漁師町にいたよりもママは明るくなりました。喫茶店の給料からいくらかは伯母さんに渡していましたが、自由に使えるお金ができたので服やら化粧品やら、それまでママが持っていなかったものが増えていきました。ママはとてもきれいで若くなりました。しばらくすると中古車の軽を買って、通勤を始めました。
私も変わりました。前の学校では、けっこう明るい子で仲よしの友達とキャーキャー騒いでいたし、いやなことはいやと言える子でした。思ったことは何でも口に出るタイプだったのです。それなのに、喋る前に言葉を選ぶようになりました。
中学生になると、頭で考えたり胸で感じたりすることは、私の中だけの存在になりました。相手の言葉の本当のとこやら、私が言う言葉の反響やら、そんなことに気を回してしまったのです。
全く喋らないわけではありませんから学校で困ることはなかったですし、友人もいました。ですが、周りの子たちみたいに無邪気に弾けられませんでした。
それでだと思うのです、「なんか言えよ」ってジンが言ったのは。あ、中学の時ではなくて、ジンと同棲するようになってからのことです。ジンがものすごく怒って叩いたりそこら中のものを投げつけたりしてくるから、黙って我慢していたんです。
そしたら、そう言われました。ジンは短気なところがあるけれど優しい人です。キン・プリの永瀬廉にそっくりの大きな目をしていて、背の高いイケメンです。あ、すみません、話がそれてしまいました。
中三になってからですが、ママが喫茶店のお客さんと仲良くなって、それで、その……その男の人のところに行ってたのだと思いますが、夜ときどき帰ってこなくなったのです。弟が寂しがるので、仕事だから仕方ないよと嘘をついて慰めました。まだ小学校の三年生なのに我慢している弟がかわいそうでした。
私が弟の世話をするからママはよそに泊まるのかな、私がいなかったらそんなことしないのかな、って考えたりしていました。それと、何となく感じ始めたことがありました。漁師町でのママのことです。悪いのはパパや婆ちゃんだけではなかったのかもしれないと。
ママとパパが正式に離婚したのは、ちょうどそんな頃でした。それで、私だけが漁師町へ帰ることになりました。私から言い出したのではありません。パパとママが決めたのです。それでいいと思いました。なぜなら、私がいなくなったらママは弟を一人きりにできないからです。
漁師町から逃げ出したときの、ボストンバッグ。それに荷物を詰めて、漁師町にもどりました。パパはあいかわらず遊び回っていました。でも高校に行かせてくれました。お小遣いもくれました。婆ちゃんは前みたいにキツイ人ではなくなっていましたが、優しくなったわけでもありませんでした。
血圧が高いと言って病院通いをしていましたから、体の調子が良くなかったようです。爺ちゃんはどこか気が抜けたみたいに手応えがなくて、ぼんやりしている時間が増えていました。高校入学後まもなしに、婆ちゃんが突然倒れて亡くなりました。爺ちゃんは、婆ちゃんが死んだというのに反応が鈍かったです。認知症にかかっていたのです。
洗濯も掃除も食事の用意も、私がするようになりました。学校から帰ったら爺ちゃんの世話もしました。パパは、爺ちゃんがおろおろしていても無視するし、御飯をこぼすと「汚ねえなあ」と言うだけです。何度も同じ話をする爺ちゃんに、ティッシュの箱を投げつけたこともありました。
パパが珍しく家にいた日、叔母さんが来ました。めったに会わない、パパの妹です。二人で話し込んでいました。それから爺ちゃんは、施設に入りました。
私は高校二年生から学校に行かなくなりました。学校に通っている意味が分からなくなったのです。何のために勉強しているのか、目標も目的も見つかりませんでした。家でも自分の存在の意味がよく分からなくなりました。それで、自分に自信を持ちたくなって、働こうと思いました。ママに電話したら、「それもいいんじゃない」と軽い返事に続けて「弟を連れて結婚する事になったのよ」と言いました。真っ赤な薔薇みたいな声でした。
長い話になって、すみません。先生飽きてきたんじゃありませんか。はい、ありがとうございます。それじゃあ自販機コーナーでコーラでも飲んで、ちょっと休憩してきます。後でまた話を聞いて下さい。え? 赤ちゃんですか。分かりました、見てきます。
サンドイッチを売ってたから、半分食べてきました。先生に話を聞いてもらったらお腹がすいっちゃって買ったのに、食べきれませんでした。胸が重いんです。何かがたくさん詰まってる感じなのに、それが何なのか、言葉になってこないからうまく説明できません。コーラはやめておきました。あんまり体に良くないんですよね。赤ちゃんは寝てました。看護師さんにミルクを飲ませてもらったらしくて、静かに寝てました。
あの、先生、絶対に私の名前を秘密にしてくれるという約束、守ってもらえますよね。でないと私、最初に電話でも言ったけど本当に困るんです。はい。はい。どうかお願いします。
えっと、学校へ行かなくなってからの話なんですが、パパに内緒でスタンドで働きました。学校ではあまり喋らない静かな子だったのに、元気な声が出ました。接客もテキパキやって従業員のつもりでいたのに、店長さんから「お前はアルバイトだから」って言われた時はちょっとショックでした。アルバイトでは学生みたいです。
でも他に仕事の当てはなかったから続けていました。本当は家を出て一人暮らしがしたかったけど、十七の女の子が入れるアパートなんてありませんでした。登校するふりをして、バスでバイトに通ったんです。
ジンは長距離の運転手で、十日に一回くらいスタンドに来ました。バイトが終わったらドライブしようって誘われて出かけたのが最初のデートでした。いつもは傷だらけのボコボコになったNボックスに乗って来るのに、その日はカッコイイ黒のハリアーでした。自分の車だって言ってたけど、その時一回きりだったから怪しいですよね。格好つけて、ツレのを借りてきたんですよ。その車で町をぐるぐる走り回って、マックに寄って、彼のアパートに行って、それから漁師町の家に送ってもらいました。ジンがアパートに一人で住んでいると知ったのはその日です。
ジンのアパートに転がり込んだのは、五回目ぐらいのデートの時でした。会う約束の前の晩にまたあのボストンバッグに荷物を詰めて、朝からそれを持ってバイトに出ていたんです。ジンと住むのだから一人暮らしにはならないけど、とにかく家からは独立したかったんです。彼はびっくりしていたけど反対はしませんでした。
パパにはメールで、家を出てアパートで暮らすけど心配しないで、って知らせました。それと、高校をやめたいから退学届を出して欲しいと頼みました。パパは電話をしてきて、「金出してやったのに何やってんだお前は」って怒鳴りました。
アパートの名前も場所も教えなかったけど、友達と一緒だから心配しないでって言っときました。でもバレちゃって。どうやって知ったのか、アパートに乗り込んで来たんです。でもジンと住んでるのが分かったら帰って行きました。ジンはどっちかというとチャラチャラしてて軽いヤツだけど、二七歳になっていたし社会人だから諦めたのかな。それっきりです。パパはもう来ませんでした。
でもね、婆ちゃんが亡くなる前にパパと言い合っているのを聞いてたから、知ってたんです。パパは若い女の子と付き合っていたんです。若い恋人の手前、私みたいな大きな子どもが居るのはいやだったんだ。だから家を出て行ってほっとした、本当はそんなとこだと思う。
そんなことよりも、ジンとの生活が大事でした。家を出て恋人と暮らし始めたんだから、本物の大人になった気分でした。歳ですか? 十八になっていました。ジンと同棲してイヤなこともあったけど、抱いて寝てくれるのがうれしかった。セックスはあんまり好きじゃなかったけど、ジンが私を愛してくれてるのが分かるし、終わったあとで優しくしてくれるから幸せでした。
スタンドのバイトはやめました。それで、アパートに一番近いファミマで働くようになりました。朝六時から十時までと夕方の六時から十時までのアルバイトを募集していたんです。やっぱりバイトしか見つけられないのが悔しかったけど、人手のない時間帯は時給が良かったんで決めました。ほんの少し高いだけですけどね。朝夕両方のシフトに入って、仕事はけっこう楽しかったです。
ジンが長距離運転手なのは言いましたよね。仕事で二日家を空けて、三日目が休み。どんな荷物を何県に運んでるのか、詳しいことは知らないんです。一度聞いたけど教えてくれなかったし、次に聞いた時は怒ってきたもん。家賃とか電気水道代は彼の引き落としになってました。悪いから、食費は私が出しました。それだけでは彼が支払う分より少なすぎると言われて、ときどきお金を要求されました。三万か五万。一緒に暮らしてんだから当然だと思いました。
彼には内緒で、毎月一万円を貯めてたんです。ボストンバッグ貯金です。その貯金が全財産です。出産費用で消える程度しかありません。もし足りなかったら、ここを出たあと働いて返します。だから、どうか内密出産の約束は守って下さい。ママもパパもジンも、みんなダメなんです。頼れないんです。知られたら困るんです。ジンは怒るに決まってる。怒ると思いっきり叩くんです。蹴ってくるし。ママは新しい人と結婚したから、迷惑かけるわけにいきません。パパは若いカノジョに知られたくないでしょ、娘が未婚で赤ちゃんを産んだなんて。
妊娠してると分かったのは、検査キットで調べたからです。もちろん避妊の仕方は知ってました。恥ずかしいのをこらえてコンドームを買ってきたこともありました。まだ妊娠なんてしたくなかったから。でも、ジンはいやがって使ってくれなかった。
そのかわり、妊娠しないようにうまくやってくれました。ずっとそれで、なんともなかったんです。なのに生理が来なくなって、おかしいなと思ってたらそのうちに胸がムカムカしてきて、妊娠かもしれないって心配になりました。
それで、高かったけどドラッグ・ストアでキットを買ってきたんです。おしっこをかけたら赤い線がはっきり浮き上がりました。心臓がバックンバックンしました。神様に、ウソにして下さいって手を合わせて拝みました。
でも神様は助けてくれなかった。ネットで調べたら中絶費用は十数万円もかかるって出てました。日帰りで処置できると書いてあったんで、受けようかと迷いました。決心できなかったのは、一人で手術を受けに行くなんて怖かったからです。
それで、ジンにそれとなく尋ねてみたんです。「もし、もしもだよ、赤ちゃんができたらどうする」って。彼は、「はあ~?」って言いました。顔をしかめて。それからやっぱり怒り出したんです。
「できたらって何だよ、俺は赤ん坊なんていらねえし。お前、まさかできちまったのか、そんなら自分で始末しろよな、知らねぇからな」って。私の肩を思いっきり突いて部屋を出て行こうとするから、私が「違うよ、聞いてみただけ。大丈夫だから、怒らないで」って言ったのに、持ってたケータイを投げつけられました。
右目の上に当たってものすごく痛かったけど、痛がるとますます怒ってくるからこらえました。ドアが外れるくらい大きな音を立てて、彼は部屋を出て行きました。それからシ~ン、って静かになりました。流れてくる血を手で拭きながら、泣きました。頼りにするのはジンだけなのに、彼にも打ちあけられなかったんです。
どうしたらいいかと混乱しているうちに、日が過ぎてしまいました。結局一人で病院へ行ったんですが、中絶できる時期を過ぎているって診断されました。二十三週目に入っていたそうです。
奈落に落とされる、だったかなあ、そんな言葉ありますよね、私が意味を勘違いしてるかもしんないけど、まるっきりそれでした。真っ暗な底なしにヒューッて落ちてく感じになりました。お腹はまだ目立ってなかったから、ジンは気づいてませんでした。
そのうちお腹が出てきたら彼にバレてしまう、どうしよう、でも生まれたらひょっとすると喜んでくれるかもしれない……ダメ、そんなはずない。いいことや悪いことをいっぱい想像してました。ジンは長距離の仕事から帰ってくると、一人で遊びに出てくんです。しかもそのとき、私の手提げから勝手に財布を出してお札を抜き取っていくの。赤ちゃんが生まれて喜ぶはずないんです。
赤ちゃんがいたら私は働けなくなって収入がなくなる。そうなったら彼の小遣いもなくなる。そしたら怒りだして、私に乱暴する。私の想像はいっつも、そこで終わりました。
私は痩せっぽちだから、妊娠七ヶ月頃になってもお腹があんまり大きくならなかったのに、八ヶ月になってから急に目立ってきたんです。ぺっちゃんこだった胸もふっくらしてきました。それでとうとうジンが感づいたんです。
怒ってお腹を蹴ろうとするから、私、ダンゴムシみたいになってお腹を守ってたんです。赤ちゃんなんて欲しくないし大事にしようなんて思ってなかったのに。ジンに頭やお尻を蹴られたり拳で背中をパンチされたけど我慢しました。
それからは、彼が乱暴しそうになると近所の公園に逃げました。裸足でブランコに腰かけてたり、ベンチでぼんやりしたりして、ジンの怒りがおさまるのを待ってたんです。人が見たらすごく妙に見えたはずなのに、誰にも声を掛けられませんでした。私の様子が奇妙すぎたんだね。一時間か二時間したら部屋に戻りました。
その頃には彼はもう優しくなってるんです。心配したぞ、腹減ってないか、って頭を撫でたり抱きしめたりしてくれました。彼は、お腹の膨らみは憎んでも、ぽっちゃりした乳房は愛してくれました。お腹の子のために膨らんだ乳房なのに、自分のためのもののように、なで回したり口に含んだりするんです。そうしながら「赤ん坊が生まれるのはどうしても許せない」って言いました。そう言うときのジンの目はつり上がって、閉じた唇がワナワナして、テレビの殺人犯みたいでした。
赤ん坊は許さないと言われたって、もうどうにもできない。ジンが手に負えない時は、コンビニのバイト仲間の女子大生のとこへ匿ってもらいました。女子学生専用マンションで、歩いて二十五分くらいのとこです。
彼女は、「バッカだねえ、あんた。籍も入れてないのに産む気なの」って言いました。ジンの子が欲しいわけじゃない、赤ちゃんなんて産みたくないのにこうなってしまったんだから、何も返事できなかった。
「で、産まれたら、あとどうするつもり」って聞かれて、ドキッとなりました。だって、産まれたらどうなるか、は想像してたけど、どうするか、なんて考えてなかったから。ジンと話し合えないんだから、私だけで考えなくちゃいけないんだって気がついたんです。ジンは頼りにできないんです。
この病院のことを知ったのは、ネット・ニュースでした。名前を秘密にして出産できて、赤ちゃんは引き取ってくれるって。神様はやっぱりいるんだって思った。それで「こうのとりのゆりかご」を検索して電話をしてみたんです。とっても優しく話を聞いてくれました。
詳しいことは話せなかったけど、いざとなったら行きたいなあって思いました。赤ちゃんを引き取ってもらえなかったとしても、部屋で一人で産まなくていいんだから、それだけでも安心できたんです。
ママならどうか、って? 無理です。絶対、無理。だって、ママに電話して事情を話したけど、「カレシと相談して自分で何とかしな」って言われて、電話を切られてしまったんです。
ジンと暮らし始めた時にも報告のつもりでラインしたんですが、「好きなようにしたらいいわ。いい人ができて同棲したんなら、これからは二人でやってくんでしょ。こっちもいろいろあって、頼ってこられても困るしね」って言われてたんです。それなのに、甘えてしまった私が間違ってたんです。ママはもう私のママじゃない。
先生、どうかお願いします。私、また働きます。働いてお金を貯めて、赤ちゃんと暮らせるようになったら引き取りに来ます。いつになるか分からないけど。それまで乳児院で育ててくれませんか。え? 乳児院は一歳までなんですか。その後は? 児童養護施設、そうですか。
頑張ったって、高校中退だからいい仕事に就けそうもないなあ。安い仕事しながら一人で赤ちゃんを育てるなんてできないですよね、できっこない。乳児院と児童養護施設に預かってもらえたら、そのほうが私も赤ちゃんも幸せかも。特別養子縁組? そんなんもあるんですか。じゃ、新生児相談室に行って説明を聞いてみようかな。
はい、先生が言うのはよく分かります。私が育てるべきだし、それが一番いいんですよね。分かってます。分かるけど、できっこないんです。でも考えてみますから、時間を下さい。
この病院に来た日のことを話します。あの日の朝、布団の中で目が覚めてじっとしてたら、お腹が痛む感じがしたんです。時々だけど、シク、シクって。とうとう陣痛が始まるんだって思ったら、もう寝られなくなって、起き出したんです。
起きてトイレに行って顔洗ってたら、その間はシクッてしませんでした。でも、じっとしてお腹に全集中して待ってたら、やっぱりシクッて。動いてると気がつかないくらい微かな痛みだったけど、間違いなくこれが陣痛だって思いました。
ジンは前の日から仕事に出ていました。私は独りぼっちで、痛みにのたうち回って、産むんだ、産まれた赤ちゃんはどう処置すればいいんだろう、私の体の手当はどうやってするんだろう、何にも分からない、赤ちゃんも私も死んでしまうかもしれない。そんなことを考えて、私、パニックになって、それで、こうのとりの病院に行こうって決心したんです。
ボストンバッグのお金を確かめてから、下着とスウェットの上下をボストンに入れて、それで、駅に向かいました。部屋に鍵かけたかなあ、覚えてないや。ここしか頼れる場所がなかった。ローカル線から新幹線に乗り継いで四時間ぐらいで熊本に着きました。
ボストンバッグをぎゅうっと抱きかかえていたの。逃げ出す時にはいつも一緒だったボストンバッグ。新幹線から電話しようかと何回もスマホを取り出したけど、できなかった。だって、断られたらもうどうしようもないんだもの。
お腹の痛みは朝とかわっていませんでした。気をつけて感じれば、やっぱり痛いなあという程度。スマホでこの病院の場所を検索して、バスに乗り換えて到着しました。外に白い像がありますよね、女の人が赤ちゃんを抱いてるやつ。あれをしばらく眺めてました。それから中に入ったんです。スタッフの人たち、みんな親切で、先生も優しく迎えてくれたから、私、ニコってなりました。久しぶり、ニコってした。
その夜になってからものすごくお腹が痛くなって、そん時、ここに来たのは大正解だって思ったの。一人で産まなくていいんだもん。看護師さんが背中や腰をさすって、ずっと声を掛けてくれた。陣痛の合間も話しかけてくれて、リラックスさせてくれた。お母さんみたいに優しいから、子どもみたいに看護師さんに甘えました。私、あの赤ちゃんになってたんです。玄関にある、あの白い女の人が抱いてる、あの赤ちゃんです。
今まで生きてきて最高に強烈な痛みでした。陣痛って、あんなに痛いんだね。先生が励ましてくれたでしょ、「もう少しだよ、赤ちゃんも頑張ってるよ」って。でも先生、ごめんね。私は、赤ちゃんが頑張ってるから自分も頑張ろうって思えなかったの。死にそうに痛かったから、こんなことならジンの部屋に転がり込まなけりゃ良かったとか、もう一度漁師町からやり直したいとか、しようのないことを千切れ千切れに頭に浮かべてたんです。ジンに叩かれたり蹴られたりするよりもずっと痛くて長い時間だった。
やっと産まれて、看護師さんが赤紫の赤ちゃんを見せてくれたでしょ。あん時、「女の子ですよ」って言われて、女の子か、可哀想だなあって思ったの。先生なら、なんでか分かってくれるよね。
病室に戻ってから気がついたんだけど、一人で産んでたら赤ちゃん死んでたかもしれない。って言うか、赤ちゃんの口を塞いで殺したかもしれない。それで、ボストンバッグに詰め込んでたかもしれないって。テレビでよく聞くでしょ、そういうの。私は赤ちゃん殺しにならなくてすんだんだね。
だけどこれから先、私と赤ちゃんはどうすればいいんだろう。ジンからは連絡来ないんです。私からも連絡してないけど。私のことは自分で何とかしなくちゃいけないですよね。でも赤ちゃんはどうすればいいんだろ。迎えに来ますなんて言ったけど、ほんとはそんな自信ないです。
今朝、授乳っていうのを初めてしました。お乳をやる気なんてないのに乳首ケアとか何とかいうのをされた時もイヤだったけど、授乳はもっとイヤだった。だって、動物になったみたいなんだもの。お乳が出るのも、乳首を吸わせるのも、気持ち悪くてしかたなかった。私は白い女の人みたいなお母さんになれない。
赤ちゃんって小っちゃいですね。私の赤ちゃんは二五〇〇グラムしかないから、新生児室に並んだ赤ちゃんの中で一番顔が小さいですよね。抱っこする時にね、「首の下に腕を回して支えてやってね」って看護師さんに言われたから、どうしてってたずねました。まだ骨がしっかりしてないんだって。自分ではなにもできないのが赤ちゃん、そんなことは知ってたけど、本当のところは知らなかったんだな、私。指はグウに握ったまんまだし、口でお乳を吸うだけ。
吸いついてる赤ちゃんを見てたら、こんなに小さいけど生きてるんだなって思いました。ほったらかしにされたら生きてゆけないくせに、生きようとしてるんだ。何だか悲しい気持ちになりました。
出産が終わった後、お腹がへっこんで軽くなって、それで、赤ちゃんと私が二人に別れたんだって実感しました。赤ちゃんが育ってゆくために、私は何にもやってあげられない。でも、ちゃんと育って幸せな家族の子どもになってほしい、とは思ってるんです。
新生児相談室の室長さんに、特別養子縁組の話を聞いてきました。それから、ものすごく悩んだんです。私がママなんだから育てなくちゃいけないし、自分の名前を秘密にしてよその人にもらってもらうなんて、やっぱり良くないよなって。先生にも、何とか頑張って育ててやりなさいと言われてたし。
でも、ちゃんと育てる自信、ないです。誰にも頼れない、お金もない、家もない、育て方なんて知らないし。育てられないです。私が育てるなんて言ったら、無責任なんです。だから、私にできるのは、養子手続きかもしれない、って思った。まだ迷ってて、決心がついてないけど。明日の退院までには決めるから、どんな決断をしても、先生、認めてね。でなきゃ、私……
長い話を何度も聞いてくれてありがとうございました。午前中、新生児相談室に行ってきました。そこで、いろんな書類を書いてきました。それで、特別養子縁組をしてもらえるようにしてきました。私の決断はそれです。きっと、その方が幸せになると思ったからからです。
私の名前は言いたくなかったのですが、先生に説得されてましたし、室長さんが責任持って秘密にすると言ってくださったから伝えました。それと、保険証のコピーも提出しました。赤ちゃんが成長していつか母親の情報を知りたくなった時のためだそうですね。子どもが望めば、私の名前が伝わるんですね。ここに赤ちゃんを置いていっても、それで親子関係が終わるわけじゃない、私はずっとこの赤ちゃんのお母さんなのだと分かりました。
私、赤ちゃんの名前を考えたんです。何もしてやれないけど、名前ならつけてあげられるでしょ。名前ですか?
「こう」です。幸福・幸運の、こう。健康の、こう。「こうのとりのゆりかご」の、こう。漢字も考えましたが、平仮名にしました。その方が優しそうだし、いろんな意味になるからです。
赤ちゃんの名前も室長さんに伝えました。最後にこうを抱かせてもらいました。こんなにか弱いのに手放すなんて、自分が情けなくて、こうが可哀想で…… これでお別れだっていうのに、こうの顔がぼやけてしまいました。
お世話になりました。今から退院します。ジンの所へは帰りません。夕べ、やっとジンからラインにメールが入りました。どこ行ってるんだよ、心配かけんなよ、と書いてありました。返信しかけて、やめました。またジンと暮らすのを想像したら、胸が苦しくなってきたからです。もう、これまでの私にもどりたくありません。前に話した仲良しの女子大生が、少しの間なら居候させてくれるはずです。そこに住んで、仕事を探します。仕事が見つかったら、自分が住む所も見つけます。
先生、このボストンバッグにね、逃げ出すための荷物はもう詰めない、って決心したの。頑張りとか、自信とか、夢とか、そういう明るくて強いものを詰めていくつもりなんです。いつか、こうが母親を知った時のために、恥ずかしくない私の証明をためていきます。
はい、ありがとうございます。頑張ります。誰にも、どんなことにも、負けないで生きてゆきます。こうは、私のおまもりにします。どこかで幸せに育っているこうを、心の中のおまもりにします。だから、どうか、こうが幸せになるように、お願いします。
(13189文字)
著者紹介
小川はつこ
文筆歴9年目。岐阜市文芸祭文芸祭賞、鈴鹿市文芸賞最優秀賞、四日市文芸賞優秀賞、三重県文化賞新人賞、斉藤緑雨文化賞。
2021年「アロハの島で寺巡り」を出版。
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