つっころ橋の二枚目

つっころ橋の二枚目

夫の足跡が、点々と残っている。玄関から外へ、上子(かみこ)はあとをつける。三和土の上に規則正しい歩幅で十二歩。三歩目と七歩目が少しくっきりとしている。そこでいったん立ち止まったものと見える。バランスを崩したというほどの窪みではないから、振り向いたりしたのかもしれない。

足跡は庭石を越えて雑草の中へと続き、あとはきれいさっぱり消えていた。見落としはないものか。上子(かみこ)はさらに腰を屈めて注意深く辺りを見まわしてみる。

行き先を告げずに出かけるのだから、どうしようもない。なにしろ夫は忙しいのだ。声をかけることもできないほど切羽詰まっているのかもしれなかった。家にいることはめったにない。それに次々と仕事を変える。今は一体どんな仕事をしているのやら、ここのところ全くの擦れ違いだった。

それが一昨夜の夜更け近くに、上子の布団にもぐりこんできた。夫の手がするすると伸びて、上子の乳房を掴み、次いで乳首をチューと吸った。夫の冷えた体を抱きしめて、ゆっくりと背をさすってあげた。少し太って幾分毛深くなったようだった。そのまま抱き合っていたが、翌朝気づいた時には、夫はもういなかった。

屈めていた腰を伸ばす。見上げると、庭先の柿の木にカラスが数羽止まっている。ギギギィーと鳴いた。うるさいほどではなかったが、何かを訴えているように聞こえた。首を回すと左隣の馬渡(まだら)家の飼い犬が、軒下で昼寝をしていた。こちらを窺う態度が、どことなく不審者を見咎める目つきである。やはり垣根を作っておくべきだった、と上子は舌打ちする。

この古びた一軒家に引っ越してきた時、垣根を作ろうとしたら、馬渡さんの奥さんが血相変えて飛び出してきた。ここに境界線を引いてはいけない、と言う。この罰当たりが、と大変な剣幕で言い募る。確かにここが境目だ、いやいやそうではない。いやいやいや、いやいやちがうちがう、など一悶着あったが、夫が留守であったため、決着は持ち越されたままで、いまだに解決を見ないでいる。睨み合いの末、先に視線をずらしたのは上子の方だった。

馬渡さんの奥さんは勝ち誇ったように顎をそらすと、すべては上子の不信心のせいだと、強く非難し、後ろ足で回し蹴りをしてきた。後ろ足回し蹴りは、馬渡家に代々伝わる護身術の一種だった。あわやというところで逸れたが、まともに喰らっていた分には、多分救急車を呼ばなければならなかっただろう。

上子はいざという時のために、身の周りの物はきちんと整理整頓している。最低限持ち出しのビニール袋や新聞紙、懐中電灯などに加え、非常用食料や水などをリュックに詰め込み、一絡げにして出入り口の壁に掛けている。なにしろ物騒な世の中だから、いつなんどき何が起こるかもしれない。天災はもちろん人災も、想定外の事件や出来事が、巷にはあふれている。ちょうど先ごろも、その類の事件が勃発したばかりだった。

駅前の大通りを一本だけ奥に入った、コンクリート建造物の裏側にあたる通路の真ん中あたりに、一本の鬼槐の古木がある。どういうわけかそこだけ街灯の設置が遅れていて、ちょうど葉影になる。まさにその暗闇から隙を突いたように、切り裂き魔が出現したのだ。たまたまそこを通りかかった仕事帰りの若い女性が襲われ、次の日にはお昼のワイドショーでニュースとして流された。

その番組を偶然上子も目にしていた。被害者の若い女性は、大きな声で悲鳴を上げたので、犯人は逃げ去ったと説明していたが、悲鳴を聞いて誰かが助けに出てくるという事はなかったらしい。幸いにして命に別状はなかったものの、その時身に着けていたスカートとブラウスは、ものの見事に切り裂かれていた。命からがら近くの深夜喫茶に飛び込んで、事なきを得たということだったが、これに類する事件は他にももっとあるにちがいない。

別の番組ではこの事件について、切り裂かれた衣類のその部分を大写しにした写真が映し出されていた。たまたま上子はそれも目にした。被害にあった若い女性の声が―当然音声を変えたものだったが―「コワカッタです。同じようなコワイ思いをする人がいないように、早く犯人を捕まえてほしい」とコメントしていた。

ともあれ怪我がなかったことは不幸中の幸いだった。犯人を見たかどうかについての説明は何もない。犯人逮捕にいたる物的証拠などもないようなので、犯人はきっと現在も逃走中なのだろう。テレビで放映された若い女性の切り裂かれたスカートとブラウスの切り口は、しかし見事と言うほかなかった。迷いなくすっぱりと切り裂かれている。凶器は多分サメ革の握りのついた匕首か、それとも銀色に光るジャックナイフに違いない。赤い七宝焼きのキャップあるいはケース付の折り畳み式ジャックナイフだ。

上子は、この切り裂き魔の正体を早く知りたかった。その秘伝ともいうべき技を、そんな卑劣な手段ではなく、堂々とした職人技として生かしてほしい、と念じるほどだった。切り裂き魔の本懐は、ひょっとすると案外若い女性自体ではなく、衣類の方にあったのではないか。だとすれば、捕まるまで、いったいどれくらいの衣類を切り裂くつもりなのか。スカートやブラウスをすっぱりと切り裂き、隠されていた肉体を露出させる。極め付きの快感と極上のスリル、なんと放埓なやり口ではないか。

十千(とち)利(り)山の南側に位置する万寿岳が、三十八年ぶりに大噴火した。爆発に伴いマグニチュード13の地震を記録したと言う噂だった。地元は大パニックに陥ったが、頻発する余震に今なお混乱は続いている。予断を許さない状況だった。

柿の木の高い枝に止まっていた一羽のカラスが、何かに反応するように背伸びをし、腹をそらせて一声鳴いた。日の光が羽に当たって、濡れ羽色に艶めいている。十千利山の麓辺りからやって来た一羽に違いなかった。日当たりのよい軒下では、オオキバドロ蜂がせっせと巣を作っている。

庭先からキッチンに戻ると、上子はすぐにクリームシチューを作る準備に取り掛かる。夫はクリームシチューが好きなのだ。美味しい匂いで引き寄せようという作戦だ。窓もドアも全開にしたまま、夫の好きなクリームシチューを作り始めた。玉葱、人参、じゃが芋を切って鍋に入れる。鶏のモモ肉を一口大に切り、これも鍋に入れる。次にサラダ油を少し入れて炒める。良い匂いが立つまで炒める。ほどよく炒めたところで水を入れて煮る。はじめは強火で、しばらくしたら鶏肉、玉葱、人参、じゃが芋が湯の中で音をたてているのを確かめ、火力を落としてもうひと煮立ちさせる。頃合を見はからって固形のインスタントルーを入れる。文句のつけようのない手際だ。

馬渡さんの奥さんが、庭を突っ切って一目散にこちらに向かって歩いてくる。また勧誘に来たのだ。近ごろ「とことん教」の勢いにはとどまることがない。信者の数はうなぎ登りらしい。「あらあ、いい匂いだこと」馬渡さんの奥さんが、鼻をヒクヒクさせながらどんどん近づいてくる。とことん教のシンボルであるジャラジャラ玉を首に掛け、胸のあたりに垂らしている。馬渡さんの奥さんは、自分を教祖の生まれ代わりだと信じ込んでいるらしい。

開け放してあった勝手口から入り込んできて、キッチンにいた上子の傍にぴったりと体を寄せ、鍋の中を覗き込む。一瞥するや「あら大変、間違ってるわ」とすっとんきょうに声を上げる。上子は驚く。これは正しいクリームシチューで、れっきとした夫の好物なのだ。「いいえ、これはまがい物ですよ」と馬渡さんの奥さんは断言する。「だってブロッコリーがないのですもの」

えっ、と上子は思う。確かにブロッコリーはない。忘れたわけではない。なくてもよいと判断しただけだ。言われてみれば確かにブロッコリーもあった方が良いのかもしれない。でも買い置きはない。家中探しても出てこない。「不信心ねえ」と馬渡さんの奥さんは咎めるような声を出す。「だから夫にも逃げられちゃうのよ」

えええっ、と上子は思う。それこそ間違いですよ。夫は仕事を探しに出かけているだけ。あるいはすでにいい仕事を見つけ、働き始めているかもしれないのだ。だからこうやってクリームシチューを作って待っている。いつ帰ってきても、暖かい手作りのクリームシチューが食べられるように。「甘いわね」と馬渡さんの奥さんは鼻で笑う。「シチュエーションは完璧だけど、私は騙されないわよ。みどり色を忘れるなんて、罪深いことだわ。すべてはオミトオシなのよ。さっさとブロッコリーを手に入れるべきね」

さあ、早く早く。上子は急かされ、背中を押しやられ、靴を履かされて外に押し出される。さあ、速く速く。上子は庭先で立ち止まる。夫の足跡が消えていた辺りだ。下を見て上を見る。柿の木に止まっていたカラスが、鳴き騒いでいる。見るといつの間にか数が増えていた。七,八羽、いや十二、十三、見ているうちに、次々に集まってきて、あっという間に、その数を増やしていった。大爆発のせいで塒を失ったカラスたちかもしれなかった。

表の通りに出ると、道をはさんだ向こう側の正面に、見慣れない建物が聳え建っている。いつの間に完成したのやら、それは金色に光り輝くとことん教の教会だった。中からはとことん教の信者たちの読経の声が聞こえていた。

トコトン トコトン スットコトン
どしたらどしたら スットコトン ジャラジャラジャラ

合いの手に、ジャラジャラ玉を両手で揉み合わせる音が入る。それにしても道の両側には、ブロッコリーを売っていそうなスーパーもコンビニもない。何としてもブロッコリーを手に入れたかった。夫が帰って来るまでに、クリームシチューを完成させておく必要がある。夫はクリームシチューさえあれば、機嫌がよいのだ。

右を見て左を見て上を見て下を見て、上子はまたずっと遠くの方を眺めてみる。ただ真っ直ぐに先へ先へと伸びている道が、十千(とち)利(り)山の麓まで続いている。十千利山は、黒々とした雪で覆われていた。万寿岳から吹き出した火山灰が、雪の上に降り積もったのだ。麓の集落に添うようにして東西の方向に根曲(ねまがり)川(がわ)が流れている。根曲川には、こちら側からあちら側へ通じる「つっころ橋」が架かっている。足元の路面に夫の足跡を見つけた。多くの足跡に入り乱れてはいたが、それは確かに夫の足跡だった。上子は瞬きも忘れて夫の足跡をつけ始める。胸がドキドキして体が熱くなった。

向こうから、具地家(ぐちいえ)さんの息子がガールフレンドと手を繋いでやってくる。息子は話すのに一生懸命で、上子には気づかない。ガールフレンドの顔色ばかりを窺っている。すれ違いざまに聞こえてきた会話は、万寿岳の噴火についてだった。「マジ死ぬかと思ったよ」具地家さんの息子が笑い声交じりに話している。聞いているのかいないのか、ガールフレンドはさっきから髪の形ばかり気にしている。「だからオレ、遺言残そうと思ってさ」具地家さんの息子は、機嫌よく話し続ける。「愛してる。愛してるよってさ」そう言って、ガールフレンドを抱きしめようとする。歩きながら抱きしめるのはなかなかタイミングが合わないらしい。「だからさ、君だけを愛してるって、叫んだんだ」ガールフレンドがぴたりと立ち止まる。ここぞとばかり具地家さんの息子はガールフレンドに向き合い、真正面から抱きしめようとする。目と目を合わせて、それから首尾よく抱きしめる。暫く見詰め合った後ディープなキスをする。ガールフレンドの上体を斜め膝上に倒し、激しくキスする。

夫の足跡はつっころ橋の中ほどへと続いていた。上空にはカラスが群れを成して舞い飛んでいた。もう少しでつっころ橋のとっかかりにたどり着ける。目をそばめてみはるかすと、橋の中ごろに一人の男が佇んでいる。長身でほっそり。欄干に右腕の肘を乗せ、上体を軽くもたせ掛け、ロングコートの裾をはためかせている。見れば見るほど二枚目だ。二枚目は川面を見下ろし、渡ってくる風に髪をなびかせ、また視線を戻し、遠くを見るようにして一息入れている。

夫の足跡は、乱れながら二枚目の足元辺りに及んでいる。二枚目の足跡は夫の足跡とぴったり一致している。もしかして夫を知っているのかもしれなかった。夫が二枚目に変装しているのかも知れなかった。夫は変装が得意なのだ。何にでも変装してしまうので、いったいどれが本者やら分からなくなるほどだ。

二枚目はにこにこしている。知って知らんふりをしているのかもしれなかった。髪に手をやりするりと撫で上げる。そうやってただ立っているだけで、何をしても似合うのだ。声をかけても返事はない。足跡を追いかけるしかなかった。入り乱れた足跡の中から夫の足跡を見つけ、自分の足を重ねてみる。一歩、二歩、三歩、夫の温みが足裏から伝わってくる。重ねながらどんどん近づいていく。足跡はまだまだ続いている。どこまで続いているのか分からないくらいだ。

その時だった。辺りをつんざく衝撃音が響き渡り、足元の地面に亀裂が走った。万寿岳が二回目の大噴火を起こしたらしい。火山灰が天高く吹き出し、十千利山は見る見る噴煙に覆われていく。噴石が辺り構わず落ちてくる。爆発音が、デジタル化したようにドド・ド・ドドッツ・ド・ドドーと、切れ切れに響き渡る。二枚目が欄干に身を寄せたまま手を振る。上子も手を振って合図を送ろうとしたが、地面が大きく傾いて橋板の上に投げ出されていた。

噴煙の中で、辺りの風景が切れ切れのコマ落としのように、揺れながら崩れ落ちていく。噴火の衝撃で空間にも亀裂が入ったのだ。「あ・い・して・る、よッ」と叫ぶ具地家さんの息子の声に、ジャラジャラジャラというじゃらじゃら玉の音が重なって響いてくる。カラスが群れを成して頭上高くを飛び回り、けたたましく鳴き交わしている。トコトン教の御詠歌が、遠くからどんどん近づいてくる。上子はようやくつっころ橋の半ばあたりにまでたどり着けた。二枚目はにこにこしている。この橋の向こうにはブロッコリーを売る店があるかもしれない。二枚目に尋ねたが、二枚目は相変わらず、どこか遠くに向かって手を振り続けている。どこからか「まがい物ですよ」という馬渡さんの奥さんの声が囁きかける。

足元が揺れる。上子は欄干にひしとしがみつく。見るとつっころ橋の向こうの風景が見事に切り裂かれて、書き割りの絵のようにバラバラになって、ゆっくりとずれ落ちていく。隙間からは黒々とした空間が覗いて見える。見事な切り口だった。あの切り裂き魔が、切り裂いたせいに違いなかった。会いたい、と上子は思った。たった今会いたい。

会いたい会いたい会いたい。念じながら上子は足跡をたどる。足跡は、切り裂かれた風景のまだもっと向こうへと続いている。

(5958文字)

著者紹介

松嶋 節

ただそこにいるだけで動かされるような世界を創りたい。
空き地の住人です。

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