今日も、薄明かりの中、小鳥たちの澄んだ声に目覚めます。
まどろみの中、小鳥たちの歌声を聴きながら朝食を待つこの刻をこよなく愛おしく思うのです。この時を惜しむように、布団を目元まで押し上げ再び目を閉じます。そして、今日起こるべく「善い事」に思いを巡らせるのです。
不意をついて、黄金の光の束が少しばかり開けたカーテンの隙間から侵入してきました。「ウ、ウウッ」と、額まで布団を手繰り寄せながら、そろりと片目ずつ開いてから意を決したように起き上がると勢いよくカーテンを開けて大きく伸びをします。
すると、そこはもう光の国。お日様の恵みを受けた木々たちが誇らしげに命の輝きを見せています。こんな日は「善い事」が起こるに決まっています。
「お茶の後、あの丘までゆっくりピクニックに出かけてみようかしら……」
急かされるように朝食に向かいます。
美しい絵画のように庭を取り込む窓には、新しい舞台の始まりのようにレースのカーテンが揺れ、そよ風が小鳥達の歌を運び入れます。テーブルには「バラデ・サンホセ」という孝行息子の精と言われる花が朝露を含んだまま、伸びやかに挿されています。
今日の始まりを孝行息子の花に出迎えられるなんて、朝の予感を後押しされたような喜びに溢れます。「ああぁ…… 」どっぷりと満足感に浸るのを遮るように突如、騒々しく食器を鳴らしながらクリスが現れました。
「おはようさんです、奥様。気持ちええ日ぃですなあ」何時ものようにポットから手荒く紅茶を注ごうとするクリスを制するように「ミルクもたっぷりにね」。
紅茶はゆっくり優雅に注がないと香りを損なうからです。
「今日は、とても気持ち好いわ。あの丘までピクニックに行こうと思うのよ。お昼のサンドイッチを用意して頂けるかしら」
「あれまっ、奥様。突然ピクニックやなんて、あたしゃ、お供出来んとです。パン屋の女房が具合悪いちゅうことで、昼からはガキの面倒見ることになっとりますんです」
「いいのよ、クリス。私が一人で行くのよ。簡単で良いから、少しのサンドイッチとフルーツを用意しておいて頂戴」
「わかりましただ。何か見繕っておきますだ」
「それより、奥様が一人でお出かけなんぞ心配ですだ。よそ見せんと、知らんもんとは口きかんようにしなせえよ。このところ、訳の分からん輩もおりますよって。暗うなる前に、早めにお帰りしなせえよ」
クリスは眉の間に皺をよせ、大袈裟な身振りで「はぁ、これで、また心配事が増えてしもうたわい。あっちの餓鬼より、こっちの奥様の方がもっと心配ですわい。ともかく、知らん者には関わらんこってす。どうぞ、気ぃ付けておくんなされよ。明日は、早めに来ますよって。ようござんすね」
クリスは、町はずれの床屋の女房でした。ご亭主が亡くなった後、床屋を閉めてあちこちの手伝いで生業を立てているようです。ここに来るのは、朝食の準備を手始めに、その日の食事、掃除など一通りの家事をして、昼過ぎに帰っていきます。商売をしていたせいか、顔も広く情報通でもあるのです。何より面倒見が良く、身寄りもなく一人で暮らす私には頼りになる存在でした。
丘のふもとまでクリスと歩き、別れ際に「お願ぇしますですよ。大事な奥様に、なんかあったときにゃぁ、あたいが辛うなりますです。昼を食べなすったら、早うお帰りしなせぇよ。知らん者には口聞かんようにしなせぇよ」上目使いに念を押しながらサンドイッチの入った籠を渡されました。
クリスの心配とは裏腹に、私は久々の外出に弾んでいました。今日は「善いこと」があるに決まっているからでした。
小高い丘の上には、大きな木が一本、形の良い枝を伸ばしています。樹幹を広げた木の根本は日陰になり、そこからは湖畔が一望でき汗ばんだ体には心地よい風がすり抜けていきます。私は、幹にもたれ掛かると、急に渇きを覚えて籠からリンゴを取り出すと、誰も居ないのを幸いに立ったまま齧りつきました。
シャリッという子気味良い音とともに果汁がドレスに散りました。その広がりは、開け放たれた何処かへと誘いこむように体の奥に染みていきました。それはリズミカルに波打ち、懐かしいハミングとともに嘗ての華やかなダンスを楽しんだ日々へと馳せさせました。思わず、左手を幹に絡ませてステップを踏み込んだ反対側に、薄汚れた男が腰を折り頭を垂れたまま蹲っているのに気付きました。
男は、いかにも疲れた様子で病気のようにも見えました。
「もしもし、どうかなさいまして?」
男は力なく頭を上げ「あぁ…… ありがとうさんでごぜぇます。ようお声をかけてくださりました。わしゃあ、もう三日、何も喰っとらんとです。さっき、風がリンゴの夢を運んできたんでごぜぇます。惨い夢でごぜぇますだ。わしゃあ、余計ひもじゅうなりましてのう、もう死ぬほど腹が減っておりますだ」男は苦しそうに言うのです。
「あら、お気の毒。でも、もうリンゴはありませんのよ。でも、サンドイッチならありますの。よろしかったら、お好きなのを召し上がってくださいましな」
男は一瞬ためらう様子を見せましたが、空腹には勝てなかったらしく、すごすごと汚れた手を籠に伸ばしました。その一片は、瞬く間に胃袋の中へと滑り込んでいきました。
「あらあら、大丈夫ですよ。お急ぎにならなくても。ご遠慮なさらずに、ゆっくり好きなだけ召し上がって下さいましな」男は、申し訳なさそうに私を見上げ、再び籠に手を入れると残りを平らげて言いました。
「わっしのような流れ者に情けをかけておくんなすった奥さんのご恩は、一生忘れんとです。わっしゃぁ、永い事旅してきましたんでごぜぇますです」
そういうと、湖畔の先を虚ろに指しながら「こん先が生家でごぜぇました。風の便りに、流行り病で村中が酷い事に成っとるって聞いて、急いで帰ってきましたんでごぜぇます。わしゃぁ一人者で身軽でごぜぇますよってに」
「若気の至りで、家を飛びだしたきりで帰るきっかけが無かったのでごぜぇます。こりゃぁ好都合。親が流行り病にかかっとったら、一生懸命看病して孝行にはうってつけの機会や思うて、駆け付けたって次第でごぜぇますです。ところが、わしが辿り着いたた時にゃあ、村の者は多かた死んどりましてごぜぇますだ。みんな纏めて埋められた小山がいくつもあったとでごぜぇます。わしの親も、とっくにその中に入っとりましたんでごぜぇます。路銭も使い果たし、行く当てものうて、このまま死ぬんを待つんかと思うておりましたところでごぜぇます。そこへ、奥さんが情けをかけてくれた。って次第でごぜぇます」
「有難かことでごぜぇます。これは、何か不思議なご縁と思いましてござりますです。はい」
男はそういうと座り直してジィーっと私を見ながら「奥さん、突然でごぜぇますが、わっしに、この恩ば返さして貰えんとですか。一生かかって恩ば返さして貰いたいんでごぜぇますです」
「奥さん。わっしゃぁ、こんなに親切にしてもろうたことは、今までに一遍も無かとです。奥さん。わっしに、親に返せなんだ二つの恩ばと一緒に、命もろうたこの恩、返さして貰えんとですとかぇ?」
私は驚きました。何ということはありません。どうせ余るはずの、ほんの数片のサンドイッチとオレンジを分けただけなのですから。
「あらま、どういたしましょう。お心は嬉しいですが、そんなに仰っていただくと恥ずかしいですわ。お気になさらないで頂戴。困ったときはお互い様ですもの。私、帰る途中ですの。家には食べ物がありますから、どうぞこれもお持ちになって」籠の残り物をナプキンに包んで渡すと逃げるように駆けだしました。
善い事の起こるはずだったその日は、半分だけのピクニック気分だけで、あっけなく終わってしまいました。それでも、娘の頃に還ったような解放感と懐かしい幸せな日々に想いを馳せられたことは、それだけで充分すぎるほどの収穫に思えました。
早めの夕食を取り、明かりを灯すために窓際に近づくと、あの男が門に寄りかかって窓を見上げていました。私は、突然クリスの言葉を思いだし、少しばかり不安になりました。それで、気が付かない振りをして窓から離れました。
夜更け、灯を消そうと再び窓に近づくと、あの男が門に寄りかかったまま、あの時と同じ姿で蹲っているのが見えました。春先とはいえ、夜はまだまだ冷え込みます。体力のないあの男には堪えるでしょう。
私は、急いで一枚の毛布を持って出て、男に言いました。
「ここの夜はたいそう冷えますの。こんなところで夜は明かせませんわ。どうかこれを持って、あの山羊小屋で休んで下さいな。明朝、お話しを伺いましょう」
男は素直に「ありがとうごぜぇますです。奥さん」と言い、深々と頭を下げ指射す小屋に向かって行きました。
ふと、明日はクリスの小言を聞かなければならない煩わしさが頭を過りましたが、衰弱した男を見捨てておけないと自分に言い聞かせ眠りました。
次の朝、小鳥たちの歌に混じって聞きなれない軽快な鋏の音に目覚めました。窓辺に行くと、あの男が庭の手入れをしていました。いつから始めたのか、大方の植木は綺麗に刈り込まれていました。「ああ、やっぱり昨日は善い日だったのだわ」
階下に降りると、不快そうにクリスが言いました。
「あの男は何者です? 知らん者と口きかんよう、あれほど注意しましたっちゅうに、拾うて来るやなんて」とは言うものの「まあ、働き者のようだし悪い者にも見えん。器用で腕もよさそうで役には立ちそうだ。まっ、あたいが、しっかり教育してやりますよってお任せ下さいましな」
クリスは、下男ができたことを少し喜んでもいるようにも見えました。
「あら、ありがとう。でも、まだ、何も決めていないのよ。行くところがなさそうだしクリスが面倒見てくださるなら、こんなに嬉しい事はないわ。今日から、食事はあなたと一緒にするといいわ。仕事後の夕食には、ワインも忘れずにね」
「甘やかしちゃあいけませんですよ奥様。まあ、あたいが目を光らせとりますから、めったなことはさせませんがね。安心しなすっておくんなさいましな。奥様」
そうして、この男を交えた生活が始まりました。
「わっしゃあ、エドでごぜぇまさあ。エドアルドのエドでごぜえますだ。エドって呼んでやっておくんなさいまし」と自己紹介しました。クリスは、子分ができたとばかり上機嫌で、早速あれこれと雑事を言いつけていました。器用なエドは嫌がらず、何でも手際よく熟しました。
やがて、日ごとにクリスとも楽しそうに打ち解けている様子が伺えました。時々、クリスの大きな笑い声がリズミカルな作業や小鳥の歌に和して楽し気な気配を運んで来ました。
不思議な事と言えば、肝心な時、決まってエドがどこからともなく現れる事でした。
その日は、エドが丹精込めた色とりどりの花が咲く美しい庭を、道沿いから誇らしげにゆっくり眺めながら歩いていました。どこからか馬車の音が聞こえましたが、花々に気を取られていた私が気付いたときには、轍を避ける為か道の端を凄いスピードで駆け抜けて来る馬車は、すぐそこに迫っていました。
「あっ」と思うと同時に体が浮き、反対側の草むらに投げ出されていました。馬車は、まるで何事もなかったように土埃をまき散らしながら通り過ぎて行きました。
あの時、エドが抱えてくれなければ、私は大けがをしていたはずです。そんなことが度々ありました。当初、偶然エドが居合わせたと思っていましたが、どうやらエドは、常に私の傍で、こっそり見守ってくれているようでした。
時がたち、年老いた私は、膝が痛くて歩くのが大変になりました。
クリスとエドは、サロンに続く庭の見える南側の部屋に、私の寝室を移してくれました。エドは、愛用の椅子に車輪を付けて車椅子にして、度々散歩に連れ出してくれました。
時折、クリスのヒステリックな声も聞こえてきましたが、エドはいつも穏やかに従っているようでした。働き者のエドのおかげで、年中、庭には花が咲き、日々の野菜ばかりか、鶏も沢山の卵を産み、山羊たちの子ども達とともに新しく飼育を始めた豚達も順調に育ち、いつの間にか家計も潤い、明るく活気に満ちていました。
その朝、クリスとエドは、バラデ・サンホセの大きな花束を持って部屋の戸口に立っていました。その日は私の誕生日でした。珍しく二人は緊張した様子で、私が気付くのを待っているようでした。「どうしたの?」声をかけると、クリスは駆け寄り花束を私に差し出すと膝まづいて言いました。
「奥様、お願ぇがごぜぇます。エドと二人で、よう話し合った事でごぜぇます。奥様さえよけりゃあ、エドと結婚して、あたいたちゃあエドの小屋で一緒に住みてぇんです。エドは、命の恩人の奥様に仕えて一生分の恩を返さして貰いてぇと言って聞かんのです。あたいも、ここで、ずっと奥様とエドの傍に居てぇです。エドの小屋に一緒に住まわしてもろうても構わんとですかえ?」と何時ものクリスらしくもなく殊勝に言うのでした。
エドも傍にきて、花束を指して言いました。
「奥さん。こりゃあ、孝行息子の花でごぜぇます。勿体ねぇ事でごぜぇますが、奥さんは、わっしには聖母マリア様のように貴い母様でごぜぇます。生涯大切にお仕えさして貰いたいんでごぜぇますです。それが、わっしの一生の望みでごぜぇます。このクリスと所帯を持って、二人で奥さんをずっと大切にお守りしたいんでごぜぇますです。奥さん。どうかお許しを貰えんとですか?」
私は驚きました。
一人になってからは、過去の思い出だけが全てでした。
雇人が去ってからは、クリスだけが頼りでした。そんな私のために心を寄せてくれる二人の想いを、これほど嬉しく幸せに思ったことはありません。何か想像だにしなかった未来が始まる予感がしました。
「優しい心使いをありがとう。勿論、結婚には大賛成だわ。お祝いに、二人に部屋を与えましょう。好きな部屋をお使いなさい。お客様が来られなくなくなったこの屋敷は、私独りには広すぎますもの」エドは、花束を抱えたままの私を抱き上げました。
クリスは、「勿体ない事を」と言って私にキスをしました。クリスの涙が私の頬を伝いました。
そうして、この日から、私たちは同じテーブルを囲み、時にエドはギターを弾きながら歌い、クリスは私の車いすを押しながら一緒に踊ってくれるのでした。
あの日予感した「今日、起こるべく善いこと」は、日々、当たり前のように私たちのもとに訪れているのです。
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